鳥羽のまちを歩く 鳥羽の歴史散歩 に戻る

神田公園
鳥羽八幡神社
岩佐家住宅
慈泉寺
安養寺
神本神社
吉田遺跡
枝吉城
古鳥羽
石棺
吉田郷土館
王塚古墳
西山延命地蔵尊

林崎掘割
円通寺
三社神社
まとめ
  
   鳥羽小コミセン所長  山下 俊郎
 まえがき

私は、平成21年4月に鳥羽小コミセンに赴任しました。
この地域に溶け込むためには、この鳥羽のまちを良く知ることが最も大切であると思い、まち歩きを始めました。

まづ、神田公園に行ってみました。何度か行っているうちに、春は桜の花が綺麗に咲き誇っているのに他の公園に比べてゴミが散らかっていること、そのゴミを子ども会が中心となって定期的に清掃していることなどを見てきました。
然しながら、この公園に歌碑があることにはなかなか気づきませんでした。
何年か前に、明石市の緑化公園課から私に、市内のいくつかの公園に歌碑を建てたいので協力して欲しい旨
の依頼がありましたので、私は、母に頼んで万葉集からいくつかの歌を選んでもらいました。
その中の一首、「雪の色を 奪いて咲ける 梅の花 今盛りなり みむ人もがも」が、その歌碑に刻まれていました。
この歌を見て、そういえば、亡くなった父は梅の花が好きだったことを思い出しました。春先には、どんな花を咲かせるのか、本当に雪の色を奪いて白梅なのか見に行こうと思っています。

そんなことを考えながら、鳥羽のまちを歩き、いろいろな史跡や寺社や歴史的建造物などを、一考察を加えながら紹介していきたいと思います。
 TOPに戻る 
 『新明石の史跡』より
 
1.神田公園

この公園の名前、普通に読めば“カンダコウエン”ですが、ご存知ですか、どう読むのか。
“ジンデンコウエン”と読みます。何故かなと考えて周りを視てみますと、公園の東隣に鳥羽八幡神社があることに気がつきました。

皆さんは、寺田(ジデン)という言葉を、日本史の授業で習った記憶はありませんか。
古代から中世にかけて、東大寺などが領地を拡大するために荒れ地を開拓して造られた水田を寺田(ジデン)といいました。そこで、神田を国史大辞典で調べてみますと神田(シンデン)という項目があり、「律令時代に神社の経費に充てるために設定された田である。平安時代以降、他の神社も私領を拡大し領主から年貢の納入を免除され、神田(シンデン)と呼ばれる場合があった。」と書かれています。

かって神田公園の周辺は、字神田(アザジンデン)と呼ばれていました。昔の鳥羽村の新田開発は、近世の明石藩になってから、古くみても中世の終り頃に始まったと思われます。それらも、これから史跡を訪ねながら確認していきます。
新田開発にあたっては、八幡さんですから大分県にある宇佐神宮、あるいは、近くの林神社から資金の援助があったのでしょうか。それとも、明石藩の指導のもとに開発が行われ、その収益の一部が鳥羽八幡神社を運営するために明石藩から税を免除されていたのでしょうか。この点については、神社に文書が残されていないので良く分かりません。

大久保町大窪にあります八幡神社には、寛永8年(1631)に明石城主の小笠原忠政が1町2反5畝の黒印領を神社に寄付し、以降、歴代の城主は15石の領地を寄付したという文書が残されています。文字通りの神田ですが、残念ながら大窪の方には字名で神田は見受けられません。
 TOPに戻る  
 
2.鳥羽八幡神社

地域の人は、八幡さんと呼んでいます。八幡さんと天神さんはどこにでもある全国版のポピュラーな神社です。祭神は、応神天皇・神功皇后・仲哀天皇と少童海命(わだつみのみこと)です。
少童海命はあまり耳にしませんが、明石では海辺にあります林神社・若宮神社(林の毘沙門天で有名な宝蔵寺・東)・藤江の青龍神社などでは、祭神の一柱となっています。

鳥羽八幡神社の由緒は、元歴元年(1184)9月7日に創建されたとなっています。元歴元年といえば、鎌倉時代が始まる少し前ですからかなり古い創建です。
そこで、この年の出来事を歴史年表で見てみますと、源義経が木曽義仲と宇治川で戦をし、源頼朝が鎌倉政権に公文所と問注所を置いたとあります。なぜこの年なのかを考えると、鳥羽八幡神社の西隣の大久保町大窪にある光触寺(本堂は明石市内で一番大きいと思われる)の開基に、宇治川の合戦が登場します。宇治川の合戦で先陣争いをした佐々木高綱の弟の佐々木義清が比叡山で修業し、そのご、寿信と名乗って源平合戦で亡くなった人を弔うために諸国を巡回します。
そして、大窪にやってきて、ここに住んで光触寺を開いたといわれています。そこから、宇治川の先陣争いにあわせて、鳥羽八幡神社が相当古いとするために無理やり年号を合わせた可能性もありそうですが、確かなことは分かりません。
境内には天満社(高良大神こうらおおかみ)
と稲荷社があります。稲荷社は、稲爪神社・岩屋神社・林神社・清水神社・御厨神社など市内の大きな神社の境内にあります。

明石市史には、鳥羽八幡神社には厳島社と稲荷社があると書かれています。天満社ではなく厳島社とすると総本社は安芸国一宮、あの厳島神社になり、全国に約500の神社があります。
明石市内で厳島社が祭られているのは、藤江川と元の浜国道の県道明石・高砂線の交差点の北西にある青龍神社と、鳥羽新田にある八幡神社の2社だけです。
鳥羽新田の八幡神社は、鳥羽八幡神社の分社ですから、私は厳島社ではないかと思っていたのですが、昭和の始めに書かれた兵庫県神社誌を調べ、地元の人に聞いても天満社だといわれました。

なぜ、そんなことに拘るのかというと、村ができると、そこにはお寺や神社がくっついてくる。中世・近世においては、村にはお寺と神社がセットになっており、鳥羽のように新田開発によって作られた村なら、農民と一緒にお寺と神社がスポンサーになって、開拓にあたった可能性もあると思ったからです。
村の起源は寺社の起源に一致する、そうすると鳥羽八幡神社は、地元では林神社の分社といわれていますが、私は、青龍神社のある藤江川河口辺り、藤江村との結び付きも、これから向かう慈泉寺と合わせて強く感じています。
 


 TOPに戻る  
 
3.岩佐家住宅

岩佐家の主家と土蔵はともに明治37年(1904)日露戦争が始まった年に建てられました。木造二階建ての母屋は、黒漆喰塗りの外壁と「起り」むくりと呼ばれる屋根(起り破風)に特徴があります。また、土蔵は白漆喰塗りの切妻造りで、屋根は本瓦葺き、明治時代の典型的な農家の形式を残していることから、「国土の歴史的景観に寄与している」と高く評価され、2007年に明石市内初の国指定登録文化財に指定されました。

 
 この主屋と土蔵は、曾祖父又吉(またきち)によって、明治27年(1894)頃着工、10年後の明治37年(1904)に竣工されて以来、太平洋戦争や阪神・淡路大震災などにも耐えぬき、100年余を経過した今日においても、ほぼ原形を有したままの姿で残っています。
これらの建物は、去る平成19年夏、明治を知る希少な農家の建築物として、市内初の国有形文化財に登録され、今春、1年にわたる改修工事が完了いたしました。
(当主 岩佐 肇氏著)


 《主屋》
主屋(おもや)は、明治37年竣工、木造厨子(もくぞうつし)2階建て、入母屋造(いりもやづくり)である。屋根は、中央部に「(むく)り」がもうけられ、全体的に丸みを帯びた柔らかな形状となっている。
内部は、
桁行(けたゆき)(東西方向)約6間、梁間(はりま)(南北方向)約4間半の規模で、東側の2間を土間、西側4間を田の字型の部屋としているが、きれいな田の字にはなっていない「喰違い四間取り(くいちがいよつまどり)」と呼ばれる形状となっている。2階(屋根裏)部分は、小屋組に「登り梁(のぼりばり)」と呼ばれる特徴的な架構が用いられ、「厨子二階」ではあるものの比較的広い空間を確保している。また、竹を縄で編んだものを野地板(のじいた)代わりとして、その上に直接土を葺いているのも特徴的である。


 《土蔵》
土蔵は、主屋と同じく明治37年竣工、木造2階建てで本瓦葺き切妻屋根となっている。棟瓦に六芒星(ろくぼうせい)の紋様があしらわれているが、
六芒星は「籠目の紋」とも呼ばれ、魔よけのシンボルとして古くから使われており、災害除けの願いを込めたものと思われる。
小屋組は主屋と同じく登り梁と棟束の併用であるが、主屋とは異なり野地板が使われている。鉄格子付きの土蔵窓にはかって鉄製の扉が取り付けられており、耐火性を備えた米蔵であったことが伺える。また、1階出入り口の扉が3枚建てとなっているのも特徴的で、外部から1枚目が片引土戸(仕上げは漆喰)、2枚目片引板戸、3枚目が片引格子戸となっている。






 
   TOPに戻る  
 
4.慈泉寺


臨済宗妙心寺派のお寺で山号は海嶽山(かいがくさん)といいます。
建長6年(1254)に法燈国師が創建しました。青龍神社の境内にある厳島社から藤江村と鳥羽村のとの結びつきを、鳥羽八幡神社のところで説明しましたが、藤江村にある龍泉寺(りょうせんじ)も建長6年(1254)に法燈国師が創建するという、慈泉寺と全く同じ縁起となっています。お寺の名前も良く似ています。

法燈国師というのは、本名を心地覚心といって承元元年(1207)に信濃国(長野県松本市)で生まれ、永仁6年(1298)に亡くなった鎌倉時代の臨済宗の僧です。29歳のときに出家して、高野山で真言密教を学びました。宝冶3年・建長元年(1249)に中国の宋に渡って学問を積み、教えを高野山に持ち帰って教義を広めました。亀山天皇・後醍醐天皇から法燈禅師・法燈円明国師という贈り名が付けられました。

このお寺は享保6年(1721)に西嶽和尚が中興しました。西嶽和尚は12歳で仏門に入り、京都で禅学・儒学・詩文を学びました。
住職になって間もなく、もともと村には井戸がなく、人々は飲み水を溝から汲んでいました。日照りが続いたり、雨が降ったりすると、水が枯れたり濁ったりして飲み水に不自由します。困っている村人をみかねた西嶽和尚は、井戸を掘りました。ひとたび鋤を振り下ろすと清水が湧きでてきました。村人は徳をたたえ、このお寺は慈泉寺と呼ばれるようになりました。
お寺のご本尊は木造の子安地蔵菩薩立像で、子授け・安産を願って大勢の方がお参りにこられます。
 
 TOPに戻る  
 
5.安養寺

浄土真宗本願寺派のお寺で城西山安養寺といいます。
このお寺には、「どんでんさん」という高さ40pの木の仏様が安置されています。風化していて元の姿をとどめていません。人々はお地蔵さんと呼んでいますが、手の形から来迎印を結ぶ阿弥陀如来のようです。

説法印・定印 どんでんさんには、古い言い伝えがあって、室町時代に、赤松五平という人が林の海岸を歩いていて、波打ち際で古い仏様拾ったそうです。五平はその姿にうたれ、教順と名前をかえて僧になりました。
小さな祠に祭っていましたが、戦国時代の大永5年(1525)に安養寺を創建しました。ご住職は、「住職がしばしば変わっているので良くは分かりませんが、本山などの記録では正徳元年(1711)の開基のようにも思えます。」と『明石の寺宝』という本の中で語られていますが、一応このお寺が造られたのが大永5年(1525)、大久保町松陰にある東東光寺が享禄3年(1530)、西東光寺が天文15年(1546)の開基と言い伝えられています。

人々の印南野台地の開発が、鳥羽・松陰に広がる台地へと向けられていった時期なのでしょう。
本尊の後ろの板壁に「天保6年(1835)播州姫路高岡村 棟梁伴右衛門」の墨書があることから、本堂は天保の頃に建てられたようです。
 
 
  《安養寺の地蔵堂》

毎年、7月23日の地蔵盆の日になると、提灯を提げて安養寺から「どんでんさん」を迎えます。この日だけ、昔の祠のあった場所に建てられた、この地蔵堂へと戻って来ます。

この、「どんでんさん」の名前の由来については誰も知りません。お寺では、泥で固めた祠に安置してあったので、「泥殿」といっていたのが、どんでんになったのではと推測されております。

地蔵堂の周りに沢山のお地蔵さまと、一石五輪塔が祭られています。ここに有る一石五輪塔(地・水・火・風・空の宇宙の五大要素である五大)は、いつ頃のものかはよく分かりません。ところどころ、寛正2年(1461)、永禄9年(1566)、寛永8年(1631)というように年号が刻まれている一石五輪塔があります。
そこから、この一石五輪塔は室町時代から江戸時代の始めのもので、御影石・花崗岩で造られたものが古くて、竜山岩・凝灰岩で造られたものが新しいと考えています。
 
 TOPに戻る  
 
6.神本神社


これまで、こうのもと神社だと思っていたのですが、昭和13年出版の兵庫県神社誌には、「かんのもと」と、わざわざ振り仮名がうたれていました。ネットで調べ、吉田郷土館にたずねても、「こうのもと神社」だといわれます。

神社の背後の台地の先端を南へ辿りますと明石海峡へどんどん近付き、今度は海岸と並行に西へ曲がり二見の方まで続きます。南へ向かうこの
崖面は2万年前の最終氷河期のころに出来ました。南へ向かう崖面が西へ曲がるコーナーの所、明石市宮ノ上に、林神社があります。いい位置です。
林神社に残されている文書の中に、初代明石藩主・小笠原忠政の家老たちが神本大明神に御祈祷領として、鳥羽村と枝吉村の境にある新田3反歩を寄進したことが書かれています。
明石藩の発展を願ってのことでしょう。

現在、鳥羽村は明石市、枝吉村は神戸市西区になっています。鳥羽は江戸時代に始まる新田開発のなかで、林崎村に組み込まれて行きましたが、明石藩が出来た当初は、鳥羽村と枝吉村は隣り合う村として協力して稲作を行う、より近い関係にあったようです。
西の谷を隔てた対岸が古鳥羽と呼ばれ、鳥羽村のもとにあった所と言い伝えられていることから、なるほどと頷けます。
古鳥羽については後の章で説明します。
 
 TOPに戻る  
 
7.吉田遺跡


吉田遺跡は、弥生時代初期の遺跡です。弥生時代の特徴に稲作が本格的に始まったことがあります。

厳密には日本で米作りが始まるのは縄文時代の終わりごろですが、このころの稲作は食料を確保する補助的手
段であり、あくまで狩猟や採集による食糧確保が中心であったと考えられています。
それが弥生時代になって農耕の技術が進歩して、稲作をはじめとした農耕が食糧確保のための中心的手段に移って行ったようです。米作りの開始によって人々は定住生活を始めました。稲作は人々に食料の保存、生活の安定、富の備蓄をもたらし、貧富の差が生まれますと戦が始まります。

身分の上下が出来、支配する者と支配される者という集団組織が生まれ、カタカナで書くクニが作られて行きました。

吉田遺跡は弥生時代初期の遺跡です。明石原人の人骨を発見した直良信夫さんが調査しました。
紀元前4世紀から3世紀ころ、大陸から北部九州に伝わった米作りが日本各地に伝播します。
吉田遺跡は、近畿地方で最も古い段階で米作りを開始した遺跡として注目されています。
 
 TOPに戻る  

 8.枝吉城

私は、“えだよしじょう”と言っていますが、江戸時代の旅行ガイドブック『播磨名勝巡覧図絵』には、“しきつ”と振り仮名がうたれていますので、“しきつじょう”と呼ぶ人もいます。

枝吉城は室町時代に明石に勢力をはっていた赤松氏の家臣の明石氏の本城として築かれました。赤松氏は室町時代の播磨に拠点をおく有力な守護大名でした。明石氏は、赤松政則の代には赤松家年寄りに列せられていましたが、その後の三木合戦では羽柴秀吉に従っています。
枝吉城が築かれる以前から、この辺りに豪族屋敷を中心とする集落が築かれていたようです。北屋敷・南屋敷・連雀・堀ヶ内・垣内などの小字名が、城下町の名残を伝えています。

特に字名の連雀は、物を背負うのに用いる背負子(しょいこ)のことで、連尺とも書かれ商人の姿を連想させます。近世の行商の多くは、この連雀に荷物を担いで、各地を往来していましたので、連雀で運搬する行商人は連雀衆と呼ばれていました。瀬戸内海を利用して運ばれてきた商品・海産物などは、明石川を利用して内陸に運び上げられ、ここ枝吉を拠点にして、三木街道を利用して北へ、山陽道を利用して印南野台地の西へと商品を運ぶ連雀衆の姿が浮かんできます。

 
  TOPに戻る  

9.古鳥羽


明石市旭が丘の辺りは、かって古鳥羽と書いて“あっとば”と呼ばれていました。地元の人たちの間では、鳥羽村はここから始まると言い伝えられています。
古くはこの辺りに村があったようですが、火災で焼けて、一部が明石の王子村、一部が現在の鳥羽村へ移り住んだのだそうです。

かっての鳥羽村全体の地形は、標高20m前後の雑木林の広がる水の乏しい台地・中位段丘面からなっていました。そこでの生活を考えたとき、台地の東端、縁辺部に位置し、谷を挟んで東には枝吉城が、さらにその東には明石川が造り出した平野部を望むという地理的条件から、この辺りが、台地では一番生活しやすい場所となります。
前の谷筋を流れる小さな河川を利用しての水田も可能であったしょう。

私は、西明石・大久保・魚住・二見にかけて広がる印南野台地の開発と、古鳥羽の村人が焼け出されて逃げて行った先の王子村との関係が気になっています。
王子村の由来は、履中天皇の孫の億計、弘計の二人の王子、後の第24代仁賢天皇と第25代顕宗天皇に関係があると言われています。この二人の天皇を祭り、顕宗の宗と仁賢の賢をとって名付けられた宗賢神社が、松陰新田・大久保町西脇・魚住町長池・清水と、近世の山陽道・太山寺道沿いに分布しています。
松陰新田にある宗賢神社には、明石城主の松平信之が、宮山として45間四方を寄付した文書が残っています。

神社というのは、農村にとっては村の鎮守の神様で、米作りとは切っても切れない、特に秋の収穫祭、秋祭りの中心的存在です。村の沿革と神社の沿革は期を一にします。お寺もそうですが、そこに宗賢神社、王子権現、王子村が顔をだすのは、王子村に現在のクボタやヤンマーのような農機具販売商がいて、村々に鍬・鋤・備中・鎌・唐蓑などの農機具を販売しており、その販売で得た利益を還元する意味で神社の建立に協力したと考えています。この宗賢神社は、明石川に沿って神戸市西区森友、玉津町出会、平野町中津、押部谷町木津に分布していますが、これも南から北への農機具販売網と考えています。 
 
  TOPに戻る  

10.石棺


石の宝殿で有名な高砂市阿弥陀町生石(おおしこ)辺りで採れる竜山岩と呼ばれる凝灰岩で造られた古墳時代の石棺・いしの棺です。この上に台形をした屋根状の蓋が乗る家形石棺ですが、残念ながら蓋石はみあたりません。
5世紀後半から6世紀にかけてのもので、通常は石を積み上げて造られた横穴石室に安置されます。吉田郷土館の北300mに、かってあった庚申塚古墳が壊されたときに吉田郷土館の庭に運ばれたと言われています。
 
 
  TOPに戻る   

11.吉田郷土館

吉田郷土館は、昭和40年に始まった玉津土地区画整理事業の収益によって建設され、昭和48年12月に完成しました。旧吉田村の集会所と明石川流域の遺跡を紹介する展示室などからなっています。

展示室は平成3年に展示替えが行われ、明石群衙跡と推定されている吉田南遺跡の復元模型などがつくられ、こじんまりとしたなかなか良い展示室となっています。
部屋に入ってすぐ左側に木葉紋、木の葉っぱのついた弥生前期の土器があります。小さな破片ですが見ておいて下さい。
 
  TOPに戻る   

12.王塚古墳


王塚古墳は、明石川の右岸の中位段丘上に造られた前方後円墳です。全長は約93mで、水をたたえる周濠を備えた、明石川流域で最も大きな古墳です。

古墳の周辺には陪塚と呼ばれる臣下の墓と考えられている庚申塚・経塚・幣塚の3基の小型の古墳がありました。 この古墳は、かって陵墓参考地となっていました。
それは、推古11年(603)に当麻皇子が朝鮮半島に出兵したとき、同行していた舎人姫王が赤石の地で亡くなりました。この皇女の墓であるとして宮内庁が管理し、陵墓参考地となっていました。
でも、こんな大型の前方後円墳は、6世紀ですから500年代になると地方では造られなくなりましたので、603年に亡くなった舎人姫王の墓とすると100年近く年代に差があるという矛盾が起きます。そこのところは、神戸市教育委員会が上手く説明していますので、宮内庁の案内はなくしたようです。

明石川流域の稲作・陸上交通をおさえていた首長の墓になるのでしょう。幣塚古墳は王塚古墳の陪塚、いわゆる臣下の墓と宮内庁では考えているようです。調査をしないと分かりませんが、王塚古墳と少し距離が離れていますので、王塚の臣下の墓とするよりも、時期が前後する、たとえば王塚の次が吉田郷土館の庭の石棺の主を埋葬したとする庚申塚、次が経塚、そして幣塚へと続く、この辺りを治めていた一族の代々の首長の墓とみる方が良いのではないかと考えています。
なにも調べずに思いつきで言うなと、宮内庁に怒られるかも知りませんが。
 
  TOPに戻る  
 
13.西山延命地蔵尊


西山のお地蔵さんとして、人々に親しまれています。
古老の話によれば、室町時代の末ごろ、この辺り一帯に繁茂していた竹藪の中に既にお地蔵さんとして祭られていたそうです。そう言われれば、お地蔵さまの横に一石五輪塔があります。

以前は、昼間でも薄暗い竹藪の中にあり、『おこり地蔵』とも呼ばれていたそうです。現在は、地元と神戸市住宅都市整備公団との共同開発によって土地区画整理事業が実施され、神戸市西区中野という立派な住宅地に生まれ変わりました。お地蔵さまを中心につくられたここの丸山公園は、市民の憩いの場として喜ばれています。

立派なお堂に祭られている『西山延命地蔵尊』は、願い事が良くかなえられるというので、付近の人々は勿論、ずいぶん遠くからもお参りにこられるようで、参詣者の線香の煙の絶え間がありません。以前やってきたとき、写真を撮っている合間に、数人の人が順番を待つようにしてお参りをされていました。
 
 TOPに戻る   
 
14.林崎掘割

今から約350年前、江戸時代の初めごろ、JR西明石駅周辺には林崎六ヶ村といわれる、和坂村・鳥羽村・林村・東松江村・西松江村・藤江村がありました。
土地は標高20m前後の印南野台地、土質は砂礫層で水を通しやすく、溜池があっても絶えず米作りの水に苦しんでいました。ちょうどそのころ、加古郡では、新井溝(しんゆのみぞ)が姫路藩の力で1年6ヶ月の工期をかけて明暦2年(1656)3月に、全長3里18町(約13Km)に及ぶ溝が完成しました。この新井溝の完成は、林崎六ヶ村の村人たちにとって刺激と勇気を与えてくれました。

そこで、野々池組代官「伊藤次郎左衛門」と六ヶ村の庄屋11人は、どのようにして灌漑用水を確保するかを相談しました。相談の結果、明石川から掘割(水路)で、野々池に水を蓄えることを考えました。そして、掘割工事の許可を明石藩主の松平忠国に願い出ました。
松平忠国は、大工事であったためはじめは許可を与えなかったが、取水工事成功の可能性や、万一失敗したら請願者一同厳罰を受けても構わないとの覚悟を聞き、明暦3年(1657)10月に掘割工事を許可しました。この工事は姫路藩と違い、農民自らの手で農閑期を利用して行われました。
神戸市西区の平野町黒田・常本に伏樋(ふせひ)を設け、ここから西戸田・印路・中村の山裾を縫って野々池まで5374m、幅約1.5mの水路を翌年の万治(まんじ)元年(1658)4月の田植え前に完成させました。

中村で代々庄屋をしていた農家には、掘割工事実施の嘆願書が今も保存されています。こうして掘割を流れてきた水は、野々池の取水口で各村々に送られて行きました。掘割が完成した年の収穫は、水量が豊富だあったので六ヶ村は大豊作だったとの記録が残っています。

ここの記念碑は、和坂村の伊藤治兵衛ら庄屋10名が、掘割工事の顛末を後世に伝えるとともに、掘割の水利で争いが生じない事を願い、元文4年(1739)12月に建てられました。大きさは横97p、高さが236p、台石からの高さが296pです。撰文は明石藩の儒学者の柴田蛻厳、書は田原何龍によります。

この記念碑は昭和48年に明石市指定文化財に指定されました。野々池
は、明石市の浄水場として、現在も市民の命の水を湛えています。
 
  TOPに戻る   

 15.円通寺

このお寺は、昭和40年に尼僧の暁瞬さんが建立しました。その前は浄水寺といい、さらに前には観音堂があったようです。
この観音堂に第六代明石藩主の松平信之の位牌がありましたが、現在は本堂に移され大きな厨子の中に納められています。

松平信之は、万治2年(1659)〜延宝7年(1679)の間、明石藩を治め新田開発に力を注ぎました。鳥羽新田の庄屋であった岩佐三右衛門は、松平信之の許可を得て、寛文11年(1671)に掘割を鳥羽新田まで引きいれています。

ここの報徳碑は、平成12年に建て替えられたもので、以前の碑はこの下に埋められているそうです。報徳碑は、鳥羽新田の開拓時に援助してくれた、かっての明石藩主・松平信之が下総・古河(こが)(茨城県古河市)で、貞享3年(1686)7月22日に亡くなりましたので、その遺徳を偲んで没後50年の享保20年(1735)に建てられました。
神戸市垂水区霞ヶ丘2丁目・西区伊川谷町有瀬・魚住町浜西(神明神社)、近くでは大久保町森田にも松平信之の供養塔があることから、大規模な新田開発が信之の時代に行われたことが分かります。
なぜこんなことが出来たのでしょうか。信之は明石から大和郡山に移り、その後幕府の老中に迎えられています。現在なら地方公務員から国家公務員になったようなものです。良くできた人物だったのでしょう。

さらに、信之のバックに熊沢番山がいました。熊沢蕃山は陽明学者で、京都で生まれて岡山藩に仕えます。岡山藩初期の藩政の確立に取り組み、零細農民の救済、治水・治山などの土木事業を行い、農業政策を充実させました。大胆な藩政の改革は、守旧派の家老たちとの対立をもたらしました。
また、幕府が官学としていた朱子学と対立する陽明学者である番山は、保科正之・林羅山らの批判を受けました。番山は京都に戻りましたが、幕府の批判をしたために明石藩主・松平信之に預けられました。

明石藩の大規模な新田開発には、熊沢蕃山の姿が見え隠れします。松平信之は大和郡山に移り、その後幕府の老中に迎えられましたが、熊沢蕃山も一緒に異動して、下総・古河で元禄4年(1691)に亡くなっています。二人で力を合わせて明石藩の米作りの基礎を固めたのでしょう。

 
 TOPに戻る  

16.三社神社

三社神社は、JR西明石駅の西の小久保2丁目に位置する小さな神社です。国道2号線の南に隣接する神社の林を目にすることが出来ます。

三社という名称が示すように天照大神と、春日神と、八幡神の三神が祭られ
ています。天照大神を祭るのが神明神社、春日神を祭るのが春日神社、そして、八幡神を祭るのが八幡神社となっています。
地元では、「三つの神社が集まって、一つの神社になった。」と言われていますので、どこにあった神社がやって来たのか気になります。

三社神社の由緒には、寛文元年(1661)に旱魃が続いたので三神をお祭りしたところ、霊験を得たので翌年に新田を建立して祭祀したとあります
。鳥羽新田の八幡神社は万治3年(1660)、松陰新田の宗賢神社は寛文2年(1662)に始まったとなっていることから、三社神社もこのころの新田開発に伴っての建立と考えられます。

『林崎村郷土誌』には、「小久保村は延宝7年(1679)から天和2年(1682)の間、明石藩主・本田政利の時代に開墾された、大久保村大窪にある光触寺の檀徒が多いので、大窪村から分離したので小窪村と呼ばれていたのが小久保村と書くようになった。」とあります。

現在、小久保には、光触寺をはじめ、福林寺(和坂)や、龍泉寺(藤江)の檀がいます。江戸時代の民衆を管理する寺請制度の名残ですが、このことから小久保村は一つの村からの分離ではなく、其々の村から人々が集まってきて村を形成していったことが分かります。
 
 TOPに戻る  

17.まとめ

“おおじ”と、“おうじ”の違いが分かりますか。パソコンで“おおじ”と打って漢字に変換すると都大路の大路が、“おうじ”と打って変換すると王様の子どもの王子に変わります。

古代の道路網は645年の大化の改新後に整備されました。東海道・東山道・北陸道・山陽道・山陰道・南海道・西海道の7ルートが造られ、それぞれの道は重要度から大路・中路・小路にランク分けされ、唯一山陽道だけが大路でした。
王子村を山陽道・都から太宰府に通じる大路が東西に走ります。
こう考えると、お気づきのように“おおじ”を漢字に充てるときに“おうじ”に間違えた可能性があります。あるいは、善意に解釈して、王子村には大道という地名もありますから重複しないように、わざと王子町(村)としたとも考えられます。

この王子の問題に合わせて、顕宗天皇と仁賢天皇に由来する宗賢神社の分布、古鳥羽の章で書きましたが、なかなか面白そうなので少し調べたいなと考えています。これは私の宿題です。

さて、まとめますと、鳥羽のまちを歩いていろいろな史跡を訪ね、鳥羽という地名の由来については、印南野台地の端(つば)からきた説、原野に鳥が多く生息していたからという説、台地の入口(とば)からきた説などがあります。皆さんは鳥羽の地名の由来をどう考えられますか。
『林崎村郷土誌』には、古代、ここに鳥場があったので、それが変化して鳥羽になったのではないかと書かれています。鳥場というのは、陵の番人が住んでいる所をさします。
古事記に様々な鳥に命じて皇室の喪に服させたという話があって、古代には、喪の行事を行うものを鳥と呼んだのがその起こりとされています。鳥、野鳥が沢山いて、それを捕まえる狩場だったという説もあり、空を飛ぶ鳥に関連付けるのが一般的です。

今回、神社・お寺・城跡・古墳あるいは鳥羽の農業を支えてきた大きな農家を訪ねました。それらは、古代・中世・近世の米作りに関連があり、特に近世初頭に始まる印南野台地の新田開発に結び付いています。古代・中世・近世を生きた人々にとって、台地を開発すること、鳥羽の原野を青々とした水田に変えることは夢のプロジェクトでした。

こう考えると、鳥羽という場所は、鳥が沢山いるということよりも、印南野台地の東端、台地の入口、台地の開発のとっかかりの場所という地理的条件に人々は注目していた筈です。国語辞典・広辞苑で“とばぐち”を調べますと、出入口とあります。

鳥羽のまちを歩いてみて、鳥羽の地名の由来は、印南野台地への出入口に由来すると私は考えました。
皆さんは如何ですか。いやそうじゃないと、図書館で文献をあたっていただいたり、ご自分の説を根拠づけるために、鳥羽のまちを歩いて史跡等を訪ねていただければ幸いです。

 
 
 TOPに戻る