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鳥羽の今・昔
編集 岩佐 肇  山下俊郎
第1章
古墳時代まで
まえがき

鳥羽の歴史は、林崎掘割と野々池の歴史です。
 画像をクリック
 大正8年の掘割
 現在の掘割
 掘割渠記碑
言いかえると、降水量が少なく晴天が多い瀬戸内式気候で、しかも一般の河川からは水を確保しにくい
明石周辺の地図 
印南野台地での米づくりの歴史です。
では、村がどのようにつくられたかとなると、そこまで詳しく描かれた書籍はありません。古文書等の資料が旧家に保管されているようですがあまり世に出ていません。
今のところ、村の成り立ちを考える手立ては、地域に残されている伝承と寺社等の史跡だけですので、これらを参考にして鳥羽の歴史をたどっていきます
鳥羽周辺での本格的な米づくりは、弥生時代の吉田遺跡(神戸市西区)の頃か
 吉田郷土館
ら始まります。

弥生時代は、日本中で本格的に稲作が行われた時代です。厳密には縄文時代の終わり頃から米づくりは始まっていましたが、その頃の稲作は食糧確保の補助的手段であり、あくまで狩猟や採集による食糧確保が中心であったと考えられています。
それが、弥生時代になって農耕の技術が進歩して、稲作をはじめとした農耕が食糧確保のための中心的手段に移って行きました。
吉田遺跡は弥生時代前期の遺跡で、明石人骨を発見した直良信夫さんが調査しました。紀元前4世紀から3世紀頃大陸から北部九州に伝わった米づくりが、日本各地に伝播し、吉田遺跡は近畿地方では最も古い段階に米づくりを始めた遺跡として注目されています。

古墳時代になると、明石川右岸の中位段丘上に王塚古墳が造られました。。
 王塚古墳
全長が93mもある前方後円墳で、水をたたえる周濠を備えた明石川流域で最も大きな古墳です。古墳の周囲には陪塚という臣下の墓と考えられる庚申塚、経塚、幣塚の3基の小型古墳がありました。
王塚古墳は、推古11年(603年)に当麻皇子が朝鮮半島に出兵した時、赤石の地
 赤石の古地図
で亡くなった舎人姫王の墓であるとして宮内庁が陵墓参考地としていました。しかし、こんな大型の前方後円墳は、500年代になると地方では造られなくなったので、603年に亡くなった舎人姫王の墓とすると100年近く年代に差があるという矛盾が起きます。そこで、現在宮内庁は、舎人姫王の墓という見解はとっていませんが陵墓参考地の指定は残しています。

このあたりに集中して古墳が造られていたことが、吉田郷土館(神戸市西区)の庭に有る石棺からも分かります。
 庚申塚の石棺

石の宝殿で有名な高砂市阿弥陀町生石(おおしこ)辺りで採れる、竜山岩と呼ばれる凝灰岩で造られた古墳時代のもので、上部に台形をした屋根状の墓が乗る家形石棺のみで、残念ながら墓石は見当たりません。5世紀後半から6世紀にかけてのもので、通常は石を積み上げてつくられた横穴石室に安置されます。吉田郷土館から、北500mにかってあった庚申塚古墳が壊されたときに運ばれた石棺といわれています。

また、王塚古墳から北300mの公園内には、幣塚があります。
 幣塚古墳
宮内庁では、王塚古墳の陪塚、いわゆる臣下の墓と考えているようです。調査をしなければ分かりませんが、王塚古墳と少し距離が離れているので、王塚の臣下の墓と考えるよりも、時期が前後して造られた、例えば王塚の次が吉田郷土館の庭の石棺の主を埋葬したとする庚申塚、そして幣塚へと続く、このあたりを治めていた一族の、代々の首長の墓と考える方がいいのではないでしょうか。経塚の調査が出来れば確かなことが分かってくるでしょうが、古墳時代、このあたりに明石川流域の稲作と、陸上交通を治めていた首長のいた事は確かなようです。
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